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2013年7月14日日曜日

【306】敬語表現⑥ちょっと脱線話でも・・・・

【306】敬語表現⑥ ちょっと脱線話でも・・・・

◎主語と目的語◎
敬語表現には
〔尊敬〕
〔謙譲〕
〔丁寧〕
の3通りの表現があり,
敬語表現が含まれる動詞の主語に対する敬意が〔尊敬〕であり,
敬語表現が含まれる動詞の目的語に対する敬意を〔謙譲〕であるということをこれまでに習いました。
この考え方は決して間違ってはいないのですが
じゃあ1つ考えてみてほしいのは

「主語」だの「目的語」だのを意識するようになったのっていつからでしょうか???
よくよく考えてみたら日本語の文法には「主語」はあっても「目的語」という文法用語は存在しません。
「目的語」という概念が頭の中に収まったのは英文法を学びだしてから・・・ではないでしょうか?
それ以前に現代の私たちは主語や目的語を正確に挿入して日本語文をつくっていますか?
主語や目的語を正確に挿入した日本語文で会話していますか?
おそらく「ノー」でしょう。
英語の感覚だと まずは主体(主語)を明らかにして(主体を宣言して) そして主体の動作(動詞)を表現していきます。 その動作の矛先(目的語)を明言します。
ところが日本語の感覚というのはまずは「動作」ありきなんですよね。 動作があるということはその主体(主語)や客体(目的語)はあるに決まっているのだけど そんなものいちいち表現しなくても「わかるでしょ~」という感覚なんですよね。

◎助動詞「る」「らる」に秘められた真実(!)◎
なんでこんな話をしだしたかというと
古文に使われている敬語動詞〔尊敬〕やら〔謙譲〕って
素の動詞(非敬語動詞)に戻してしまうと
実は「言う」「聞く」「見る」「思う」「行く」「来る」「いる」「食べる」「飲む」「着る」「乗る」「与える」「もらう」・・・・
くらいのもんで数えたことはないけど,たいした数ではない・・・・
な~んだ・・・それならかりに30種類としてもそれぞれに〔尊敬〕〔謙譲〕があるとして30×2=60種類の敬語を覚えればいいのか・・・・
と考えてしまいたくなるところですが
そうは問屋はおろさない。

①非敬語動詞1つに対して数個の敬語動詞がある

②敬語動詞1つに対して数個の非敬語動詞がある(意味がたくさんある)

③同じ言葉でも敬語動詞だったり補助動詞だったり,〔尊敬〕の意だったり〔謙譲〕の意だったりする

というわけなのでこれがまた厄介なのです。
すべてを「文法的に」解明しようとするとそれはまるで幾重もの糸がからまったものを解きほぐす作業みたいになってしまいます。

1つの敬語動詞で〔尊敬〕〔謙譲〕の意がある!!
なぜこんなことが起きるのが???
例えば「天皇が私に本を与える」という意の文を考えてみましょう。
英語で「天皇」を主語にすると
「Tennou gives me a book.」
英語「私」を主語にすると
「I am given (by Tennou)a book.」
いわゆる「受動態」というやつですね。
日本語(古語)で同じように考えると
「天皇」を主語にすると
「天皇,私に本を給ふ」
となり,「給ふ」の主語は「天皇」なんだからこの場合「給ふ」は(話者から)天皇への敬意で〔尊敬〕語~ということになる。
反対に「私」を主語にすると,英語と同じように「受動態」にしてみましょうか。日本語の受動態といえば〔受身〕の助動詞をつければいいのだから
〔受身〕の助動詞といえば「る」か「らる」となり「給ふ」はハ行四段動詞だから未然形は「給は」となり,四段の未然形ならば「る」をつけるだけでいいので,
「私,天皇より本を給はる」
となり,これはこれで「一件落着」・・・のはずなんだけど
もしも日本語が英語と同じように単語が1語ずつ区切って表記されていたならばこの話はこれだけで終わったのだろうけど
見方によればこの「給はる」が1語の動詞と見えなくもない。
話は戻ってこの「私,天皇より本を給はる」を「訳する」とどうなるか?
バカ正直に「受動態」風に解釈しようとすると「給は」+〔受身〕ととって「私は天皇によって本をお与えられる(ン?なんかヘンだな)」となるけど
それよりは上手に意訳して「私は天皇から本をいただく」と「意訳」したほうがしっくりくる。
じゃあそれならば「給はる」を1語とみて「いただく」という〔謙譲〕語とすれば合理的でしょ!となる。
ところがどっこいこの「る」「らる」には〔尊敬〕の意の助動詞でもあったりする。
「給ふ」をもっと「尊敬」してやろうとすると
「給は」+「る」となっての「給はる」なんだけどこれもまとめてみれば1語の動詞にみえなくもない。

かくして
「 たまはる ( 賜る ) 」[ ラ四 ]( ←「 受く 」の〔謙譲〕版 )
→『 いただく 』

「 たまはる ( 賜る ) 」[ ラ四 ]( ←「 与ふ 」の〔尊敬〕版 )
→『 お与えになる 』
(鎌倉時代以降)

・・・なんてことになるわけです。

では,そもそもの発端はどこに原因があるのでしょうか?


これはわたしの考えだけかもしれないけど,多分・・・・
敬意の対象とは恐怖と賞賛の対象そのものなので,「る」「らる」に
「なんかされてしまうのではないか?(畏怖→受身)」と
「うわーなんかしているよ!(賞賛→尊敬)」
という2つの意味がこめられている
・・・という感覚があり
これを「文法的」に解釈しようとすると
〔尊敬〕の敬語動詞に〔受身〕の意をこめればそれは主語をかえた〔謙譲〕の意となり
〔尊敬〕の敬語動詞にさらに〔尊敬〕の意をこめればそれはそのままさらなる〔尊敬〕となる現象が起きるわけです。

でも実は当時の感覚としては
そんな面倒くさい「文法的解釈」なんて考えていない。(そもそも国文法について最初に研究したのはずっと時代が下って本格的な文法体系書は本居宣長によるものらしいですから・・・)
「まずは動詞ありき」の日本語世界なので
敬意の対象が登場するならまず「敬語ありき」!
〔受身〕も〔尊敬〕も同じ感覚!
誰から誰へなんていわなくてもわかるでしょ~!
主語?目的語?ナニソレオイシイノ?
書き言葉にするならば適宜主語やら目的語を付ければいいじゃん
こんなもんだったのでしょう。

◎追記◎
助動詞「る」「らる」についていろいろ述べたけど,
詳細は省きますが(というか筆者自身がまだよくわかっていないというのが本音だけど,笑笑)
これと同じような感覚は「す」「さす」にもあるといえるでしょう。(こっちは〔使役〕との兼ね合いで〔受身〕とはまったく正反対なところが面白いところです)
ただ,前に助動詞のところにアップしたものをもう一度ここに再登場させてみます。

「る」
未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形 接続 意味
るる るれ れよ 〔受身〕 〔可能〕 〔自発〕 〔尊敬〕
※四段・ナ変・ラ変の未然形に接続,それ以外には接続しない→要するに語尾が「a」音の動詞の未然形接続
「らる」
未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形 接続 意味
られ られ らる らるる らるれ られよ 〔受身〕 〔可能〕 〔自発〕 〔尊敬〕
※四段・ナ変・ラ変以外の未然形に接続,それ以外には接続しない→要するに語尾が「a」音でない動詞の未然形に接続
接続関係以外に「る」と「らる」で異なることはない。もっとはっきりいってしまえば「らる」の方は語尾が「a」音以外の動詞に「a」音(「ら」)を補って「らる」の形になっていると考えてもよい。現代において起きているいわゆる「ら」抜き言葉とは四段・ナ変・ラ変(→現代ではすべて五段)動詞以外の動詞の未然形に接続するとき補うべきこの「ら」音が抜けている現象をいう。このようにかんがえてみると意外とそれは助動詞「らる」の「る」への原点回帰といえるかもしれない(笑)。

「す」
未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形 接続 意味
する すれ せよ 〔使役〕 〔尊敬〕
※四段・ナ変・ラ変の未然形に接続,それ以外には接続しない→要するに語尾が「a」音の動詞の未然形接続
「さす」
未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形 接続 意味
させ させ さす さする さすれ させよ 〔使役〕 〔尊敬〕
※四段・ナ変・ラ変以外の未然形に接続,それ以外には接続しない→要するに語尾が「a」音でない動詞の未然形に接続
接続関係以外に「す」と「さす」で異なることはない。もっとはっきりいってしまえば「さす」の方は語尾が「a」音以外の動詞に「a」音(「さ」)を補って「さす」の形になっていると考えてもよい。現代においてラ抜現象と同じようなサ抜現象はまだ起きていない・・・・・が,「食べさせる」を「食べせる」なんてことがもしかしたら今後流行るかもしれない(笑)。

長々と引用しましたが,接続関係に(なんとなく)共通性がありますよね。

「る(らる」と「す(さす)」には
相共通する根底には「畏怖」があり片方はそこから〔受身〕が派生しもう片方は〔使役〕が派生し,それが〔尊敬〕で融合する!

・・・・みたいな感覚になるのはわたしだけでしょうか?
脱線終わり。

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