敬語の話をする前に平安時代の物語や日記文学が著されていた時代背景を簡単に説明します。少々乱暴な話になるけどあくまで古文を学ぶ上で「歴史背景はこういうことだった」と思っていたら間違いないというレベルで理解してくれればよろしいと思われます。 |
平安時代の開始は794年からとされていますが,645年の大化の改新によって天皇中心の国家基盤(法整備など)ができあがりました。でも正確にいえば「改新」ではなく「開始」です。ではそれまではなんだったのかといえば,天皇家を含むいくつものチームがあり,権力争いをしており,最後に残ったのが蘇我氏でこの蘇我氏との「決勝戦」を制した天皇家が最終的な勝者となる「過程」にすぎません。小学校~中学校の教科書を見ると大化の改新以前にも聖徳太子が「政治を行った」という記述がありますが,これは本当でありウソでもあると考えましょう。確かにそういう人はいたかもしれませんが,それはあくまで「天皇家チーム」内部の話にすぎません。歴史に「たら」「れば」は禁物ですが,もしこの「決勝戦」で蘇我氏が勝利していたならば,蘇我氏こそが今でいう「天皇家」のような地位にあったでしょうし,それまでの「天皇家チーム」の系図なんてのは陽の目を見ることはなかったはずです。当然「蘇我氏」も「蘇我氏」なんて名乗ってはいないと思われます。蘇我馬子だの蘇我入鹿だの2人あわせて「馬鹿」なんてなってしまう名前(これらは多分天皇チームの歴史家が勝手につけた名前)もなかったと思われます。むしろ聖徳太子あたりにとんでもない失礼な名前がつけられたかもしれません。 |
その大化の改新以降すべての人間とすべての土地は「公」のものであるとする公地公民制の理念の下,新しい制度がつくられていくわけですが,この「公」とはいまとはまったく意味は違い「みんな」ではなく「天皇」そのものです。当然ながらそれ以前でもよほどの山奥で他との交わりを一切絶って自給自足でもしていた物好きな人でもない限り,全国各地にいろんな形での支配する者と支配される者がいたわけですが,この公地公民制とはそういったローカル的支配関係を(形式上は)一旦白紙にして,(形式上は)この世で唯一の支配者は天皇であり,それ以外の人間すべては天皇に支配される者である・・・「ということ」にしたわけです。 |
ところで,実際はといえばまさか本当に天皇1人が天皇以外の全員を支配する・・・なんてことはとうてい不可能なわけで当然ながら天皇のまわりにはごく限られた特権階級の取り巻きがいたわけで,この連中こそがその他大勢の人民たちを実際に支配しており貴族なんて呼ばれたわけです。当然ながらその序列も厳格に決まっていて,一番上が正一位,ついで従一位,正二位,従二位,正三位,従三位,正四位上,正四位下,従四位上,従四位下,・・・・・という冠位というものがありました。この冠位たるや実は江戸時代が終わるまで形式的に残っており,実際は武家支配の世の中になってもその武家の格付けはこの冠位をよりどころとしたわけですから面白いものです。格式を求める武家から「冠位発行手数料」をとって細々と生活していた皇族やら摂関家の需要と供給が成り立っていたわけです。これらの冠位のうち従三位より上の者たちを貴族と呼んでいました。 |
「源氏物語」やら「ナントカ日記」やらが書かれた時代,実際にこれらを読むことができた人たとはといえば,簡単にいってしまえば都に住む貴族だけだったといっていいでしょう。「源氏物語」の後に東国・上総の国府に任官していた菅原孝標の娘さんが著した「更級日記」というのがありますが,父孝標だって厳密にいえば貴族ではないにせよ,四位か五位程度の冠位は受けているわけで,それなりの特権階級には違いないにもかかわらず,彼女が東国にいるころは「源氏物語」の噂は耳にしているが読むどころか現物を見たことすらなく,父の任期が終わって都に帰ってから人づてを頼ってあれこれさがした挙句にやっと手にいれて読むことができたとされています。当時は印刷技術もなく読みたいと思えば写し書きをして読んだわけでして,そうそう出回るものでもなかったわけです。当時の都といえば平安京ですが,ここには天皇と貴族の豪邸が立ち並び,仰々しい役所があってさらには天皇や貴族に仕える人たち(専門職の人たち)が住んでいただけで,今でいうところの「市民」が1人もいなかったといわれています。都のまわりには「その他大勢」の人間が住んでいたには違いませんが,彼らの生活といえば実はいまだに穴倉のような粗末な家に住み朝から晩まで農作業にあけくれ,文字とも無縁の生活でした。都の近くにいたとはいえ「源氏物語」なんて存在そのものも知らなかったといえるでしょう。 |
つまり「源氏物語」にせよ「枕草子」にせよそういったものは,ごくごく一部の特権階級だけが読むことができたものであるわけで,今流に考えればごくごく一部の特権階級だけが閲覧できるブログのようなものだったということになります。特定集団だけの回し読みを想定して書くわけですから,紫式部にしろ清少納言にしろそれが1000年も後の世で天下万民に知れ渡り大学入試のネタにされるなんてことはまったくの想定外でした。読み手は内内の限られた人間だけということになれば,当然「いちいち言わなくてもこのくらいわかるよね~」なんてことは省略されたわけです。「おほとのごもる」と書けばいちいちそれが「帝が」なんて主語をつけなくても「わかるよね~」なんてことになり,それが後世の私たちを苦しめる要因となっているわけです。もし紫式部さんが優しい人だったら草葉の陰で「大学受験のみなさんごめんなさいね~~」と毎年手を合わせていることでしょう。 |
こういった時代背景があったので,話者を含めての登場人物の身分の優劣には今からすれば異常といえるほど気を使い(今だってかりに高校のナントカ部内だけの回し読みブログがあれば当然先輩後輩関係に気を使い,それなりの敬語を使うはずです)現代の私たちが読むとなるとそれなりに大変な作業になるわけです。 |
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